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千代女の時代
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加賀俳壇史

蕉風俳諧の成立

千代女

 俳諧は、江戸時代の始めに、遊びや滑稽を旨として、ことば遊びとして普及しました。
 先の人の作った上の句(発句といった)に、次の人が下の句を付ける連歌から始まり、発句だけを独立して作るようになります。
 俳諧はやがて経済的実力を高めた上層の町人や農民にも広まってゆきました。

 16世紀の終わり頃、松尾芭蕉は、滑稽の俳諧から離れて、さび、しおり、ほそみ、などの考え方を取り入れ、幽玄閑寂な風を作りだしました。これによって、発句は文学に高められました。
 芭蕉の「蕉風の俳諧」は、急速に全国に広まりました。


立花北枝と加賀俳壇

 芭蕉の弟子のうち最も優れた10人は蕉門の十哲とうたわれています。
 そのひとり立花北枝(ほくし)は加賀の人です。

 元禄2年(1689)、芭蕉が「奥の細道」で名高い奥州・北陸の旅の途中、金沢に滞在した折には、 北枝を始め多くの土地の俳人とも懇談していることが史料に見えており、既に加賀では俳諧が盛んであったことが知られます。


千代女以前の松任俳壇

 千代女以前の松任にも、長谷川薫烟(くんえん)・岩上哥友(かゆう)などの有力な俳人が活躍していました。
 芭蕉が小松多太神社で詠んだ 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」 の句は、松任には、哥友にあてた書簡に記されたという逸話が残されています。


千代女のおいたち

 千代女は、松任町の表具師福増屋六兵衛の長女として、元禄16年(1703)に生まれました。

 母方の実家は町方肝煎の村井屋で、当時の松任御旅屋文書には村井屋小兵衛の署名捺印が多く残っており、福増屋も比較的恵まれた家庭であったと想像されます。
 しかし、千代女は「うまれつき弱く候ゆへ」と後に記しています。健康にはすぐれなかったようです。

 元禄7年の俳書「卯花山集」の中に「松任 艸風」の句があり、千代女の庵室を艸風庵と呼んだことや、養子六兵衛が艸風の印を用いたことなどから、父の六兵衛の可能性が大きいと思われます。千代女の父は俳諧を勧めることで、千代女の健康を願ったのかもしれません。


千代女の師 北潟屋大睡

 千代女は幼年のころから俳諧をたしなみ、石川郡誌によれば、12歳の頃には本吉町(現美川町)の町方肝煎を勤めていた北潟屋半睡(大睡)に師事したと伝えられています。

 半睡は、その年の正徳4年(1715)、小松の薄紙の下を訪ねた伊勢の八菊との句会に帆吹の名で一座しているのが初見ですが、帆吹の名からあるいは北前船に関係して、 以前に寄港地で俳諧に触れていたかも知れません。享保3年夏には半睡の名で各務支考を迎えており、既に知られた俳人となっています。

 支考は、千代女が享保3年の暮れから発句を始めたとしており、郡誌の記述には信がおけませんが、千代女の初期の句には半睡の影響と見られる軽い艶色が認められます。


各務支考

 芭蕉の最後を看取った高弟のひとり、美濃の各務支考(かがみしこう)は、芭蕉の弟子である井波の浪化上人や生駒万子、北枝らの招きで、元禄14年以来毎年のように、北陸地方を訪ねています。 そして、各地の俳人の句会の開催や俳書の板行を援助して、多数の門弟を育ています。

 享保4年(1719)8月25日、支考は、松任において17歳の千代女と出会い、そのたぐいまれな才能を認めるとともに、自由に俳諧を続けるよう指導しています。

交流のあった俳人・俳壇


麦林舎乙由

 美濃派に染まった北越俳壇は、一面では脆弱で、支考の友人の伊勢の涼莵、乙由の来遊に対しても動揺し、名古屋の露川の北上においては、支考との激論が交わされています。

 また、北枝は正徳元年(1711)の山中温泉への支考の呼び出しに応じず、美濃派の講頭となることを拒絶しています。

 北枝の弟子である希因は、美濃派と付き合いながらも、伊勢の麦林舎乙由(ばくりんしゃおつゆう)に師事し、千代女も、享保10年(1725)頃に、伊勢まで訪ねて教えを受けています。


加賀俳壇と女流俳人

千代女

 伊勢から戻った千代女は、女性の俳諧を追求したと見られます。金沢の紫仙女(しせんじょ、のちの素心尼)と連吟し、女の寺として高名な成の行善寺に奉納した軸に、 小松の兔路が、越前三国の哥川女(かせんじょ)・小松の須磨女・遊女奥などの句を加えて、享保11年(1726)俳諧姫の式を板行しています。

 哥川女や須磨女との交遊は没するまで続いています。また、千代女は松任や本吉の商家の婦人達に手紙を送り、生涯勧誘を続けています。


加賀俳壇の伊勢派転向

 美濃派道統三世の廬元坊による北越行脚は、美濃派の最後の輝きとなり、享保16年(1731)の支考の没後、加賀俳壇は希因を中心に、大勢として伊勢派に転向します。 半睡・若推・素心尼・曽平・山隣・五菱・舎朶・亀町など有力俳人が続々と伊勢に向かい、乙由の門を叩いています。
 また、元文期にかけて、珈涼、枝鴿(見風)、既白、麦水など、次代に続く新しい才能が現れて世代の交代が進みます。

 一方、千代女は享保15年(1730)一時「本吉千代」となるのですが、松任に戻り、享保18年、半睡・若推は職を辞して俳諧行脚の旅に出て、半睡はその後出家し大睡と改めます。
 そして、福増屋法名軸を信じる限り、千代女は元文2年(1737)以降父母、兄を失い、表具屋の経営に苦心したと見られ、「婦人にして家産を忘れず」の状況に至り、寡作の時代に入ります。


希因の死

 希因の俳諧集団である暮柳舎には新たな才能が集い、北越における伊勢派の重鎮として全国に知られて行きます。

 読本作家としても高名な建部涼袋(当時、都因と号する)は津軽の出身で、延享2年(1745)来沢し希因に学んでいます。 また、同じ伊勢派で画家の百川は、寛延元年(1748)12月北上し、加賀の俳人に書画の制作を広めています。 ついで、伊勢から幾曉(春波)が来訪し、北越で生涯を終えています。

 千代女は、寛延元年以降再び、俳諧の活動を再開し、多くの俳書に掲載されるようになりますが、 寛延3年(1751)希因が没し、加賀は最も重要な指導者を失います。

交流のあった俳人・俳壇


千代女の剃髪

千代女

 希因の没後、加賀俳壇は危機に落ち入ります。さらに、加賀騒動の政治的混乱、銀札くずれの経済失政、金沢大火を始め本吉など各地で 頻発した大火などの社会不安が拍車をかけ、著しい停滞期に向かいます。
 暮柳舎は大阜等により維持されますが、三四坊は放浪の旅を続け、五竹坊は江戸に落ち着き、麦水は家産を失い小松に移り稗史の編纂に従事します。

 千代女は宝暦4年剃髪して、全国の俳書に投句を続け、画人達と交流して書画の技術を高めて行きます。また、見風や珈涼らと、藩筆頭家老の前田土佐守直躬との交遊を始めています。

 既白と闌更は、卯辰山の麓に狐狸窟を築き、いずれが狐か狸かとの厳しい状況の中で研鑽を続け、新たな俳諧の道を模索し、既白は全国を行脚して情報を集めています。


朝鮮通信使献上句

  宝暦も末期頃になると、社会も落ち着きを取り戻し、暮柳舎の俳人達は充実の年齢に達し、再び俳諧が盛んになって行きます。

 既白は次々と俳書をものにし、大睡は「硯洗集」を、麦水は「鶉立」を、闌更は「花の故事」をまとめ、如本や後川は「北時雨」、暮柳舎の春帖「こころまかせ」を上梓し、見風は「霞かた」を準備します。

 千代尼は宝暦13年8月、命により朝鮮慶賀使への献上のため、掛物6幅、扇15本に自句を記して提出しています。9月1日と3日、藩主が松任の笠間屋に立ち寄っており、また、加賀染物が同時に献上されているなど、松任町を挙げての対応であったと推定されます。


千代尼句集

 既白は、千代尼に句集の発刊について強くせまりますが、千代尼は辞退を続け、既白は自ら編纂することで、了解を得ます。 千代尼句集は宝暦13年藤松因序、闌更跋文を得て、明和元年秋頃に上梓されます。季語別に546句をまとめた個人句集で、 上下2冊に分かれ、さらに、明和8年冬、第二句集「はいかい松の声」に327句が上梓され、千代女のものと思われる挿絵が挿入されて、 生存者の句集としてはかつてない規模となっています。

 千代尼の名は全国に知られ、その句集は藩政時代を通じて再版が重ねられます。一方、明らかに間違った千代尼の伝記もこの頃から、流布されていったと見られます。


蕉門復帰運動

 明和6年、闌更は「有の儘」をまとめ、蕉門復帰を高らかに宣言し、ついで、明和7年、麦水は「俳諧蒙求」を著し、 ついで次々と俳論をまとめ、貞享正風に復帰すべきことを説きます。これは蕪村にも一時影響を及ぼします。

 一方、明和元年以降、名古屋の曉台、信濃で白雄、京都で蕪村、播磨で青蘿が活躍を始め、三四坊二柳は大阪に居を定め、 既白は近江や吉野にあり、麦水や闌更も盛んに江戸や京に足を運んでいます。

 千代尼もまた、その句を変えつつありましたが、世上の俳諧が難しくなったと嘆き、また、松任俳壇は養子白烏に任せ、書画の制作を進めています。


相河屋夫妻

 明和8年以降千代尼は病床にあり、時折起き出しては、来客に応対し、あるいは依頼されていた書画の作成を続けたと見られます。

 晩年の千代女を支えたのは、千代女の一番弟子で松任中町に住した相河屋すへ女と桃洞舎之甫の俳人夫婦でした。

 千代女関係史料の多くが、相河屋夫妻の努力によって後伝されたと考えられ、今日残された千代女の書簡にも多くのすえ宛書簡があります。

 現在、聖興寺境内に残されている千代女追悼句碑も、相河屋夫妻によって建立されたものです。


千代女以降の加賀俳壇

 千代女の晩年以降、天明期にかけて、堀麦水や金沢の高桑闌更・中山眉山・津幡の見風などが活躍しました。

 闌更は京都に上って東山に芭蕉堂を営み、曉台から花の本宗匠を継ぎ、明和から天明にかけての俳諧中興期に大きな足跡を残しています。


江戸時代後期の加賀俳壇

 高桑闌更(らんこう)の興した芭蕉堂は、その後も金沢の成田蒼虬(そうきゅう)や桜井梅室(ばいしつ)が京都に上って 受け継ぎ幕末に至っていますが、加賀での沈滞は著しくなります。

 幕末から明治初期にかけては、直山大夢(だいむ)が「掌中千代尼発句集」の編纂を始め句集の出版を進めている程度です。


その後の松任俳壇

 松任では千代女没後、記念の年忌に追悼句集が編まれており、多くの俳人の名を知るのですがその活動の詳細を知ることはなお途上にあります。

 神社奉納額などから見て、松任連と呼ばれた俳人達のほかに、各地の集落でも盛んに句会が催されていたと見られます。