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千代女の時代
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千代女の年譜
年号 干支  西暦  年齢 事項 時の流れ
寛文 12 壬子 1672   貞門俳諧から談林への兆しの頃、加州松任の笠間宣之・良治が梅盛編「山下水」にはじめて入集


芭蕉「貝おほい」出版
貞享 2 乙丑 1685   「稲筵」(鈴木青風編)に「加州松任」の琴水・薫烟・友晴・祐電・花盛・因風の句入集  
元禄 2 己巳 1689   3月、芭蕉「おくのほそ道」の旅に出立し、7月、加賀路(15日〜8月上旬)を歩き、24日松任を通る。松任での逸話「万子翁餞別の説」(『俳諧世説』)・「万子翁にまゆみ翁北枝に留別」(『芭蕉翁頭陀物語』)は有名。このころ松任戸数523件 芭蕉「おくのほそ道」の旅に出る。
元禄 16 癸未 1703 1 松任(現在白山市八日市町)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれる。


 



去年12月、赤穂浪士吉良邸討入。浪化没。南関東大地震。
正徳 4 甲午 1714 12 本吉(現在白山市美川町)の大睡(支考門)のもとで俳人として修行。 涼菟金沢に遊ぶ。
享保 4 己亥 1719 17 8月24日、美濃の各務支考は知角を伴い千代女を訪問。支考は「行春の尾のそのままの杜若」「稲妻の裾をぬらすや水の上」の千代女の席題句に「あたまから不思議の名人」と称賛。 支考『俳諧十論』刊行。
享保 5 庚子 1720 18 金沢の福岡某に嫁ぐ。このことに関し、金沢大衆免(現在金沢市森山1丁目)の大組足軽、福岡弥八説あり。(一方、不嫁説あり) 江戸大火
享保 6 辛丑 1721 19 6月、尾張蕉門の雄、沢露川が北陸に行脚し、金沢で会う。  
享保 7 壬寅 1722 20 春、夫に死別し、実家に帰る。「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉」(『其使』元禄7年刊)は浮橋の句。  
          6月、露川と燕説の北陸行脚の俳諧選集「北国曲」(巻耳撰)に初めて掲載される。  
           池の雪鴨あそべとて明てありり  
享保 10 乙巳 1725 23 春、京の東本願寺に参詣。伊勢俳壇中川乙由を訪問し入門。数日間滞在。

 伊勢参道にて
 口紅粉をわすれてすずし清水かげ

小松の宇中(支考門)が「伝千代女書」刊行。
支考、芭蕉三十三回忌追善興行。東大寺戒壇院再興。
秋色没。
この頃宇中没。
享保 11 丙午 1726 24 4月、紫仙女を訪門し俳諧連歌2巻を戈し、、行善寺(現在白山市北安田町に奉納。この連歌は美濃派の小松の俳人兎路により女性俳句のアンソロジー『姫の式』編集出版。

何となき物のいさみやほととぎす 千代女

美濃の堀部魯九(露川門)は「松任千代女を訪ねて」と前書し、旅人に落馬なさせそ美人草 と詠む。このころ中央の名士と交流意識高まる。



 



園女没。
享保 12 丁未 1727 25 春、師の支考に俳句行脚を勧められた美濃の廬元坊里紅が千代女を訪ね、俳諧撰集『桃の首途』(1728)の「松任短歌行」成る。  
           昼顔の行義に夜は痩にけり 千代女 享保16年 支考没
享保 17 壬子 1732 30 初夏、上洛し、乙由と再会。  
元文 2 丁巳 1737 35 10月7日 法名釈宗和は父か
  (「福増屋法名軸」)
この頃蕪村、巴人に入門。
元文 4 己未 1739 37 3月24日 法名釈尼妙は生母か
(「福増屋法名軸」)
紫仙女没。乙由没。
元文 5 庚申 1740 38 この頃、千代女の俳諧活動はは目立たない。 小春没。
寛保 3 癸亥 1743 41 9月20日 釈永了は兄か 
(「福増屋法名軸」)
芭蕉五〇回忌追善。燕説没。
延享 3 丙寅 1746 44 6月、涼袋は千代女を訪問し、「市中に婦人の産をわすれざるを感じて」と近況を語る。 加賀騒動収束。大和の千代女没。大和の森川千代女追善集「雪の石ずり」刊行。
延享 4 丁卯 1747 45 伊勢の麦浪(乙由の長男)訪問。 蘆元坊没
寛延 戊辰 1748 46 俳諧に復帰し、句の掲載さる俳書数多い。鶴来金剱宮奉納額に「松任表具屋千代」と記し、里朝、珈涼、山叩、大睡等ともに句を奉納。 「千代尼、珈涼尼巧者の聞えあり、北国増す々盛の時なり」(年代記)
            蕪村丹後国に遊ぶ。
宝暦 4 甲戌 1754 52 10月、剃髪し素園と号し居室を草風庵と称す。 百川没
宝暦 5 乙亥 1755 53 5月、山本氏(大聖寺藩本陣、松任の米屋八左衛門)墓碑に、悼句を刻す。


 



加賀藩 銀札を発行
          あらたまりぬるいしぶみの御まへにささぐ  
          石にしむことばのたねや梅の雨千代尼拝  
宝暦 10 庚辰 1760 58 3月、金沢東別院の親鸞上人五百回忌法要に参詣。9月、越中井波瑞泉坊に参詣。その途次、津幡の見風宅に立寄り、小松の黒瀬屋山叩に消息す。 すへ女、紫園と号す。
宝暦 11 辛巳 1761 59 4月、歌人内山逸峰は千代尼と対面して、「夜ふくる迄かたりぬる」と記す。(「報恩詣都紀行」)。3月、東本願寺宗祖五百回御遠忌に珈涼と上京し参詣。この頃、狩野派画人達と多くの合作軸を作る。  
宝暦 12 壬午 1762 60  1月25日 法名釈了和は兄または弟か(「没福増屋法名軸)  
          3月末、越前の吉崎御坊に参詣し、「吉崎紀行」をまとめる。養子六兵衛(白烏)を迎えたのはこの頃か  
宝暦 13 癸未 1763 61 8月末、第十一次朝鮮通信使の来朝に藩の下命による懸物6幅、扇子15本を書き上げる。「鶉だち」(麦水編)「霞がた」(見風編)に序文を書く。 闌更「花の故事」で蕉風復帰を唱える。
明和 甲申 1764 62 既白編の「千代尼句集」乾坤2冊(藤松因序・半化闌更跋。546句載録)刊行  
明和 2 乙酉 1765 63 2月、飛騨の千尺の求めにより「飛州十景絵巻」に賛句を書く。3月、歌人内山逸峰再訪し一泊。4月、越中の康工編「俳諧百一集」刊行され、千代の画像ありて、若い頃を偲ばせる目元すずやかな老尼姿に描かれ、知友に見せたりする。  
明和 5 戊子 1768 66 自撰の76句を浄書した「自撰真蹟俳諧帖」成る。  
明和 7 庚寅 1770 68 「施主名録発句集」(義仲寺芭蕉堂中所在三十六人肖像)に智月尼の画像と題句書く。  
明和 8 辛卯 1771 69 既白編の千代尼句集後編「俳諧松の声」(坡仄序。半化坊闌更跋。327句載録)刊行。冬、「曲尺」序文を書く。4月信濃上田の白雄は紫雨、虎杖を伴い北陸、関西の途次千代女訪問。 麦水、闌更ら古調運動に一石を投じる。
            珈涼没。
安永 3 甲午 1774 72 8月「たまも集」(蕪村編 119名44句載録)の序文を書く。 涼袋没。
安永 4 乙未 1775 73 3月、思想家高山彦九郎千代女訪問。9月8日、病没。 大睡没。
          月も見て我はこの世をかしく哉  
寛政 11 己未 1799   千代尼塚(現在白山市中町・聖興寺境内)建立 二十五回忌    
文化 8 辛未 1811   千代尼塚(現在金沢市泉2丁目・念西寺境内)建立 三十七回忌  
大正 3 甲寅 1914   千代尼埋骨塚(現在金沢市本町2丁目・専光寺境内)建立